「自分=世界」 全ては一つのもの
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124 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/20(月) 10:35:34 ID:g01JM0fIO

願望実現を目標に自己観察をしている方って私を含め、
不足を感じる現状やそれにイラついたり悲しくなったりしてると思うのですが、
どうしてそれが嘘や錯覚だと理解出来るのですか?

私はこれを自己観察すると、「不足を感じている…」で完結してしまって、
錯覚であると見抜いたり何かとの一体感に目覚めるまでいかないのです
確かに今ここにあると、自分が不足そのものとして存在出来ない事は理屈では分かります
(無い物は無いという認定すらできないから)

私の考え方(今見えてる現状が真実であるという認定)や自己観察の仕方が間違っているのでしょうか
どなたかご教示ください


160 :幸せな名無しさん:2014/01/20(月) 22:25:53 ID:osGlfm4E0

>>124
頭でわかってるけどそう思えなくて悲しいって人は、感情面を満たしてあげるといいんじゃないかな。
愛や充足、安心に浸ってみるとか、自愛とかもいいんじゃないかな。
自己観察っていうと「気づく」ことにばかり集中するのかもしれないけど、
積極的に「安心」属性に意識を向けることで、それは活性化するもんなんですよ。


126 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/20(月) 10:54:14 ID:qfDhtDvE0

>>105の自己観察さん
>自分が見てる方向に全てが展開していくから、右を見れば世界は右に展開し、
>左に目線を移せば左に展開するというくらいの簡単さです。

ではたとえば、増税がなくなって欲しいと思えば本当にそうなりますかねえ?
いや、望むだけじゃダメですよね

右を見るか左を見るかって
要は楽しいことを考えるか、いろいろと思い悩むかのどちらかだけですよね?
で、前者ならあらゆることが望ましい方向に展開して後者なら望ましくない方に展開するだけの話ですよね?
突き詰めれば


160 :幸せな名無しさん:2014/01/20(月) 22:25:53 ID:osGlfm4E0

>>126
>増税がなくなって欲しい

自我は「増税なくなって欲しい」というでしょうが、
それを超えた視点では「増税に関係なく幸せである」というのが真実ですね。
自我視点を超えて在れば、増税がなくなるかどうかはわかりませんが、
増税に関係なく幸せな世界が展開すると思います。

>要は楽しいことを考えるか、いろいろと思い悩むかのどちらかだけですよね?

「考える」ではなく「在りかた」です。
「楽しいことを考える」といってもその動機は色んなパターンがあるように思うので。
例えば「楽しいことを考えてたら増税がなくなるかも」「楽しいこと考えると何かが起こるかも」
と何かを期待して「何かのために」楽しいことを考えるのは「楽しくない場合もある」という対極が存在します。
ただ「楽しさそのものとして在る」と、増税があろうとなかろうと楽しいしかないわけですから。

「楽しいことを考える」のと「思い悩む」は相対的なものですが、
その両極のどちらかを見るというのではなく、
その両極の支点に在るものを見るということですね。

左右を例えに出したのでわかりにくかったですね、すみません。

165 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/20(月) 22:53:47 ID:h0FREbNE0

>>160
二点だけ教えてもらえませんか?

>自我視点を超えて在れば、増税がなくなるかどうかはわかりませんが、
>増税に関係なく幸せな世界が展開すると思います。

①ここでいう「在れば」すなわち「在る」っていうのは具体的にどうやればよいですか?体感する感じ?
②幸せな世界が展開する、ってのは、意識上だけのお話ですか?それとも自我が認識する
 物理世界にも展開するという意味でしょうか?


181 :幸せな名無しさん:2014/01/21(火) 23:33:35 ID:GtfB/oPA0

>>165
①単純に、状況に関係なく幸せである、の「ある」です。
「どうやったらそうなれるか」となると、なんらかの根拠や条件がいるということになる。
つまり状況によっては幸せで在れないと言ってることになります。

もし「でも今幸せで在れていないし」と思ってるとしたら、その前提には
「幸せになるために何かが必要で、今それを手にしていないから幸せでないのだ」という思い込みがあります。

これが「在りかた」です。
つまり「在る」とは思考ではない(思う以前の)あなた自身の心的態度、
または意識状態とかになるでしょうか。「思う」はdo、「在る」はbeですね。

「増税になったら生活が不安だ。あれもこれも今のうちに買っておこう。これからどうなるんだろう…」
とかぐるぐると思考に没頭してるときと、はた、と気づいて

「でも考えても仕方ないか~」
と思考の没頭からふと醒めるような感じの違いわかります?

あれこれ思考で没頭しているところから、ふと我に返る感覚です。
そこで安心や幸せの感覚を感じるとしたらどんな感じだっけ~っと思い出せばいいんです。

体感が必要というわけではないんですが、この思考に没頭してる状態と、
思考から醒めて安心とかを感じてみることのメリハリがわかるようになれば
自然と「する」と「(安心や幸せで)在る」の違いもわかるんじゃないかと思うんよね。
(考え方の一つとして。)

②この場合、意識と物理的現実は分離していない一つとして在るのだから
「意識上だけで幸せを感じる」ことは不可能です。>>116の②も関連。

200 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/22(水) 22:43:33 ID:cHDm.S2o0

自己観察さんへ
>>178です。細かいようだけど

気づいている意識として在る=思考、感情に気づいている状態=思考、感情に意識を向けている状態
でいつづける

だよね?最初からこう聞けばよかった。


241幸せな名無しさん:2014/01/27(月) 21:29:47 ID:c2Kj4pyI0

>>200
>思考、感情に気づいている状態=思考、感情に意識を向けている状態

他スレで自己観察してるらしき方々のレスをざっと見たんですけど、
自己観察って大きく分けて二通りあるようです。

①思考、感情に気づいている状態のときに、「思考、感情に意識を向けている場合」
②思考、感情に気づいている状態のときに、「気づいてる意識を自己認識してる場合」

元々私が書いてるのは②のほうなんですが、①についての質問に答えたりすることもあるので、
混同させてしまってると思います。

①は思考という「対象」に意識を向けているので、対処したくなるんじゃないかと思うんですよね。
自愛等を併用とか、感情を感じ尽くそう、リリースしようとか。

②は対象ではない、「主体」である自分を再認識することで、「主体」と「対象」を分けてる境界線が
実際には存在してなかった!ということに気づけるんじゃね?って話なのです。

なので②が楽に出来るようならそれでいいし、落ち着かなくて何かしたくなるようなら①がいいかと。
201さんは広がる感じがあるようなので、②で楽しんでてもいいんじゃないかと思いますよ。

もうちょっと詳しく書くと
①は幻のほうに意識を向けてるから、幻を幻と気づくのが難しいんです。
よってループしやすいと思います。

②は本体?のほうに意識が集中するから、幻がどんどん影が薄くなって消えていくんですね。
でもこれがスンナリわかる人以外は、変に拘るより①への迂回ルートのほうがいいようです。

242 :幸せな名無しさん:2014/01/27(月) 21:32:21 ID:c2Kj4pyI0

あと、ふと思ったんですけど、
>>105で意図は再確認程度でって書いたんですが、
「○○だとしたらどんなだろう?」みたいな問いかけがいいんじゃないかと。

広大な潜在的可能性の場に問いを投げかけることで、可能性が形作られるのではないかと。
ふわっと返ってくる感覚がそのまま意図になるんじゃないかと思います。

なので、感覚的な答えが返ってきやすい問いかけをする必要があると思いますけど。

この流れで書くのもなんなんですけど(というかこの流れで思いついたんですけど)
問いと答えはセットですからね。

254 名前:幸せな名無しさん 投稿日:2014/01/28(火) 13:55:21 ID:AULuSEWw0

自己観察さん
はじめまして、3年前くらいからリアルタイムでROMさらせていただいています。
以下、勝手なお願いです。うーんとお時間のあるときにでもご検討いただければ幸いです。

>>241
>思考、感情に気づいている状態のときに、「思考、感情に意識を向けている場合」
>思考、感情に気づいている状態のときに、「気づいてる意識を自己認識してる場合」

1つめは、ここにいる人たちも結構できているのだと思います。
2つめが、認識を変えるためのキモだと思うのですが、いままで読んだ書籍や
達人といわれる皆さんのまとめなどを見ても、ここが既にスタートラインになってしまっていて、
うまく足がかりがつかめません。

なにか、分った人には当たり前の感覚で、何が分らないのかが分からないかのような。。。
(←自己観察さんが、ということではありません)

>他スレで自己観察してるらしき方々のレスをざっと見たんですけど、
>自己観察って大きく分けて二通りあるようです。

もしよろしければ、この二通りある前提で「自己観察」の仕切り直し----
「気づいてる意識を自己認識」する感覚や手法?みたいなものを解説----していただけませんか。
本などでもそのズバリは見たことありませんし、「恩寵」と表現されたりもしていますので、
言葉にするのは非常にむずかしい内容なんだと思います。

447よしおさんが「簡単ゆえ超絶むずかしい」とおっしゃっていましたが、
「超絶むずかしいが、簡単」となるようなきっかけをいただけましたらありがたいです。


302 :幸せな名無しさん:2014/02/01(土) 11:27:27 ID:jdpBoXQY0

>>254
「簡単ゆえ超絶むずかしい」は、マインドの性質をよく表してますよね。
マインドは達成が好きなので、達成感が味わえない簡単なものを受け入れませんね。
簡単なものでは満足しません。
「気づくだけ」という簡単なものはマインドは我慢できないようです。

恩寵ということなら、私なら「普通であると同時に壮大である」と表現します。
つまり「気づき」とは、簡単であり難解であり普通であり壮大です。
ですから思考ではどうしようもありません。
思考を離れることでしか、それを受け入れることは不可能なのです。

>思考、感情に気づいている状態のときに、「気づいてる意識を自己認識してる場合」

これは別に深い意味を持たせたものではなく、文字通り、読んだそのままの意味です。
たった今端末でこの文章を読んでいる、ということを気づいていてそれを自覚できるはずです。
その単純に気づいてる意識です。

ちょっとここで>>296さんに宛てて書きますが、「気づいてる意識に気づくことが大事」というのは
それは「思考にフォーカスするんではなく、気づいてる自分にフォーカスする」ことを指しています。
それは思考にフォーカスしてる人が多かったので、対比的に「大事」と表現しただけです。
なぜか「気づいてるだけではダメだ」という話になってますけど、
なにか特別な意識に気づかないといけないという意味ではありません。

「これに気づくことが重要だ」というのは簡単なものより難解なものを達成したがるマインドです。
あえて重要というなら、何度も書いてるように「放っておくこと」のほうが比べようもないくらい重要です。
自己観察の基本スタンスは「放っておく」というベクトルなので、
それが重要だと思うなら、なおさらそれを放っておくしかないのです。


あとちょっと思ったんですが、思考に「反応」として気づいてるんではないでしょうか。
「思考があってそれに気づく」のではなく「気づきそのものとして在るところに思考が湧く」という感覚なんですが。
気づきとは思考に先立ってあるものですから、「思考でこんなこと考えてることに気づいた」というところから
さらに一歩踏み込んで、「気づいてると思考が出てくる瞬間がわかる」くらい鮮明に気づくことですね。
これもわからなかったら放っておくしかないですが。

303 :幸せな名無しさん:2014/02/01(土) 11:28:25 ID:jdpBoXQY0

というわけで話を戻しますが、その単純なごく普通に気づいてる今の瞬間に、同時に壮大さがあります。
変化だの気づきだの恩寵だのは、壮大であると同時にごく普通のものでもあります。
同時とはいえ、「普通」には慣れていて「壮大さ」に慣れていないため、
なかなか「壮大さ」のほうに気づけないのです。

でもマインドはその普通さを「これではない」と否定して、そうではないものを見ようとしますね。
それは同時に壮大さも否定しているんです。
「気づいてるけど何もない」とか、変化や恩寵を求める姿勢が、たった今恩寵を否定しています。

恩寵とは、普通にただずっとあり続けてたものに気づくことです。
「今に在る」という普通さのなかにずっとあり続けてるものを、特別なものを求めてる目で気づけるでしょうか。
その「今」という普通さの中で、どれだけ明晰に気づいてることが出来てるでしょうか。
それは空気のようなものですから、誰でも空気に気づくことはできるでしょうが
「空気ってなんて壮大なんだ!」と突然気づく人は少ないでしょう。

つまりもう既にあって既に気づいてるものを、「特別な気づき」があるはずだと期待するほうがおかしいのです。
「特別な気づき」なんてあってもなくても空気はあり続けているのに、
そんなものを求めているから、たった今そこに在る空気の存在にも気づけません。

思考に気づいてそれと同化するか、それと離れるか。

本当にそれだけです。
というか、それをただ受け入れることです。

「わからない」という人ほど、自分はちゃんと気づいてると言い張ってるように見えます。
それは「気づくだけ」という簡単なこと以外にところに何かがある、という思いからではないでしょうか。
「気づくだけ」という誰でも出来る普通のことに価値が見出せないからではないでしょうか。

「気づき」とはそんな軽く扱われるようなものではありません。(重くもないですが)
「気づき」こそが私たちの本質とも言えるものですから
「気づいてるけどわからない」とかいえる性質のものではないんです。

「気づいてるけどわからない」のではなく「気づきが明晰でないから余計なものに惑わされる」んです。
「既にあると気づいたけど自分にはない」というのも同じです。

私はこの「気づきの度合い」が「自分=世界」の度合いだと思ってます。
鮮明に気づいてるほど、世界は自分そのものであるという気づきがあります。


特別な気づきなんてものはありません。
逆説的ですが、特別なものがあるとしたら、それは普通さの中に最奥にあります。
普通さを否定して得られるものではありません。

「変化がなくてもかまわない」ということを、「普通でいいのだ」ということを
「わからなくてもいいんだ」ということを、受け入れることは出来るでしょうか。
これはパラドックスですから、わかりたいなら「わからなくていいのだ」と受け入れることこそ
難解ゆえ簡単といえるかもしれませんね。(あれ?これって自愛っぽいですねw)

自己観察的に言えば、
何かを求める気持ちが大きい人ほど、意識的に「今」に気づいてることだと思います。

「気づいてるけど~」と「けど~」とかいえるレベルではないくらいに、明晰に気づくことですね。
全ては「そこ」にしかないのに、「そこ」以外に何かがあるように思えるということは、
気づきが浅い?(という表現は適切ではないかもしれませんが)のではないでしょうか。

これも「どうすれば深く気づけるのか」とかなったら困りますけど。
「気づき」はどんなに考えても深まるわけではないし、やはり気づくことでしか気づきは立脚しません。
かといって努力はむしろ気づきを阻害するものですし、やはり何もすることは出来ません。
というかそういう疑問に囚われる人は、やっぱり思考で探求するほうが好きでやめられないということだから、
思考からスパッと出られるタイミングではないのかもしれません。

私の場合は、思考に気づくことを始めてから、如何に自分が思考をすきなのかということを思い知り、
そして思考に振り回されることにウンザリしたので、割とあっさり思考に見切りをつけたんですが
自分が本当に思考で探求することをやめる覚悟がないと難しい人もいるかもしれませんね。

自己観察スレ2
 
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[2015/08/11 01:35] | Category * 自己観察式

 

 
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